プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」(マタイ4:12−13)。

 バプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、四十日四十夜、荒れ野で悪魔の試みを受けられた主イエスは、ガリラヤへ退かれると、郷里ナザレを離れ、カファルナウムに居を移し、そこを拠点にして伝道を開始する。ここより「十字架への道」を行く主イエスの公生涯が始まるのである。
 ところで、福音書記者が主イエスの公生涯の第一声として記録した言葉、「悔い改めよ。天の国は近づいた」は、マルチン・ルターが宗教改革の狼煙を上げた「95箇条の提題」の第1条に引用したものである。「われわれの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』(マタイ4:17)といわれたとき、彼は信仰者の全生涯が悔改めであることを求められたのである。」
 この言葉に象徴されるように、宗教改革とは悔い改めの改革であった。それはカトリック的悔悛から福音的悔い改めへの改革(R.ゼーベルク)であった。ルターは悔い改めという純粋に霊的な体験が主イエスの福音に基づき、福音的生活原理としてキリスト者の全生涯を貫かねばならないと主張したのである。教会は深い悔い改めなしにその使命を果たすことはない。十字架への道を歩まれた主イエスが、私たちを招いておられるのである。「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と。

 そこでまず注目したいのは、マタイが主イエスの第一声を洗礼者ヨハネの第一声とまったく同じ言葉で記していることである。3章1節以下にこうある。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」(3:1−2)。洗礼者と全く同じ言葉をマタイは、主イエスの口に乗せたのである。しかもマタイは、主イエスの伝道開始をヨハネの逮捕と結びつけたのである。12節、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」
 マタイはこう記すことで、主イエスは洗礼者ヨハネが始めた業を引き継いだと言おうとしているのだろうか。この問いについては、ヨハネが獄中から弟子たちを主イエスのもとに遣わして、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(11:3)と問わせた経緯に答えがあるように思う。
 「来たるべき方は、あなたでしょうか。」この問いから分かることは、ヨハネが宣べ伝えた「天の国」と、主イエスが宣べ伝えた「天の国」とは次元を異にするということである。言い換えれば、ヨハネが宣べ伝えた「天の国」の延長線上にイエスの姿はなかったのである。その影すらないのである。だからこそヨハネは主イエスに問うたのである。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。

 それにしてもヨハネが宣べ伝えた「天の国」の延長線上に主イエスがいないとすれば、では、ヨハネはいかなる意味でメシアの先駆者と言われるのか(マタイ17:9以下)。これとの関連で注目したいのも12節、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」である。ここに「捕らえられた」とあるが、この言葉は福音書記者が、主イエスの受難と死を表現するために使う「引き渡される」と訳される言葉である。つまりマタイは、「ヨハネが捕らえられた(引き渡された)」と記すことで、主イエスがこれから歩まれる受難の道を予表したのである。ヨハネは「捕らえられた(引き渡された)」ことにおいて十字架への道を行かれるメシアの先駆者なのである。彼が宣べ伝えた天の国の福音、つまり倫理的勧め(3:6以下)ではなく、「捕らえられた(引き渡された)」ことにおいてヨハネはメシアの先駆者なのである。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」十字架への道を行く主イエスの第一声がこの言葉であったことは実に示唆深い。福音書記者は〈十字架〉=天の国の到来が間近に迫っていることに悔い改めの動機を見ているのである。言い換えれば、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」(ロマ2:4)のである。十字架という神の慈愛が悔い改めの唯一の動機なのである。「イエス自身、そして新約聖書の全体は究極のところ、人間がおのがじし救いを受けるところに悔い改めの唯一の動機を見ているのである」(エレミアス)。

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