プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「それは、預言者イザヤを通して言われたいたことが実現するためであった」(マタイ4:14)。

 マタイが描く主イエスの公生涯の始めの記事で特徴的なのは、「ガリラヤに退かれ」た主イエスが、郷里「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」ことである。マタイはこの移動に、「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(4:15−16)という、「預言者イザヤを通して言われたいたこと(の)実現」(4:14)を見たのである。

 それにしてもマタイは、この主イエスの移住で読者に何を伝えようとしたのだろうか。それを知るひとつの手がかりとして紹介したい言葉がある。それはシモーヌ・ヴェイユがナチス・ドイツに追われ、アメリカに亡命している時に書きい言葉、「不幸な人々に対して、神の御国について語らないこと。その人たちにとって、神の御国なんて、あまりに縁遠いものであるから。ただ、十字架についてだけ語ること。神が苦しんだのだ。だから、苦しみは神的な事柄である」である。
 「不幸な人々に対して、神の御国について語らないこと。その人たちにとって、神の御国なんて、あまりに縁遠いものであるから。」このように語るヴェイユと同じことを教会の内部から語った人がいる(もっとも、ヴェイユもカトリックの神父と親交はあったが、洗礼は受けていない)。ラテンアメリカで活動する解放の神学者グティエレス神父である。神父は、「ラテンアメリカの地で神を語る」とはどういうことなのかについて、聞く者たちの心を烈しく揺さぶる言葉でこう語った。「われわれは、貧困と抑圧の蔓延する状況下において、愛として顕現される神について、いかなる言葉を発すべきなのであろうか? 若くして、また不当に蹂躙されて他界する男女に対し、われわれは生ける神の存在をいかに告げるべきなのであろうか? また、無垢の民の苦難を目の前にして、神がわれわれに愛という無償の贈り物を作って下さったと、いかにすれば承認することができるのであろうか? 人間としてみなされることのない男女に対して、あなたがたは神の息子であり、娘なのであると語るとき、われわれはどんなことばをもってそれを語ればよいのであろうか? これらが、ラテンアメリカで、また同様の状況に置かれた世界の他の地域で形づくられてきた神学において問われている主要な問題なのである。」(『ヨブ記』まえがき)。

 グティエレス神父もまたシモーヌ・ヴェイユも、不幸な人々に神の国を語るな、どうして語れるか、とした。しかし、私たちがきょうマタイ福音書に見るのは、彼らとは正反対の言葉である。マタイは、不幸な人々に主イエスは「天の国」を宣べ伝えたと記すのである。しかもマタイは他のどの福音書記者よりもそのことを強調している。
 なぜマタイは、主イエスは不幸な人々に神の国を語ったと記すことができたのか。マタイが知っている不幸な人々と、シモーヌ・ヴェイユのいう不幸な人々とは、不幸の度合いが違うのか。マタイが引用したイザヤ書には、不幸な人々について次のように記されている。「この地では、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて…神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。」(8:21−23a)。
 マタイは、主イエスはこの不幸な人々に神の国を語ったと記したのである。主イエスが宣べ伝えた「神の国」と洗礼者ヨハネが宣べ伝えた「神の国」が全く別物であったように、グティエレス神父やシモーヌ・ヴェイユのいう「神の国」もまた、全く別物なのである。ということは、シモーヌ・ヴェイユのいう「ただ、十字架についてだけ語ること。神が苦しんだのだ。だから、苦しみは神的な事柄である」という言葉も、福音書記者が描く十字架のキリストの苦難とは全く別物である!ということになる。そこに洗礼を決断できなかった理由があるように思う。ちなみに、グティエレス神父の言葉には、十字架のキリストは一切言及されていない。
 なぜ主イエスは不幸な人々に神の国を告げ得たのか__おそらく主イエスは、不幸な人々に神の国を語ることができた歴史上ただ一人の人物である__。主イエスが不幸な人々に語った神の国とは何か? それを知りたいと思う。

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