プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」(マタイ4:17)。

 貧者、病者、奴隷たちがその境遇において十字架のイエスの苦しみを追感した十字架神秘主義に対して、宗教は「民衆の阿片」との批判がなされた。しかしこの批判は十字架神秘主義の核心に触れていない。確かに、苦難神秘主義は容易に苦難それ自身の正当化へと変えられうる。シモーヌ・ヴェイユは「ただ、十字架についてだけ語ること。神が苦しんだのだ。だから、苦しみは神的な事柄である」と言った。確かに、十字架神秘主義は、運命への服従的態度を、その徳性として称揚しうるのである。十字架につけられた方と共に苦難することは、自己憐憫に通じ、自らの悲しみ、苦しみを歌い上げ、描き上げ、それに自己陶酔し、その世界に入り浸り、他の人を誘い込む。しかしこの場合、信仰は苦難するキリストから離れるのである。
 私たちはこの蛇のような誘惑(阿片)からどうしたら免れることができるのか。マタイはこう記す。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」マタイは、主イエスが悔い改めを求められたのは、エルサレムの住民、祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々ではなくガリラヤの人々、つまり「この地では、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて…神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」人々に対してであると記す。ここに宗教を「民衆の阿片」と片づけてしまう者たちには到底理解しえない、十字架神秘主義の極地がある。

 この十字架神秘主義を現代において見事に表現したのが、アメリカの黒人奴隷の間で歌われた黒人霊歌である。彼らの敬虔もまた、主イエスの十字架と復活に思いを傾注している。主イエスの苦難と死は、彼らにとって、非友好的かつ非人間的な世界における、自分たち自身の苦難と、軽蔑された状態と、試練との象徴である。彼らは、自らの運命を、主イエスの苦難の中に見出したのである。彼らは、主イエスと共に苦難し、そして彼と共に死んだのである。イエスこそ、彼らからすべての希望を取り去り、人間としての同一性を見る影もないまでに破壊し去った世界において、神のもとにある彼らのアイデンティティーなのである。
 しかし、彼らが十字架のキリストに見たのはそれだけではない。讃美歌第二篇に黒人霊歌が数曲まとめられている。その中に「あなたも見ていたのか、主が木にあげられるのを」(177番)と歌う歌がある。この賛美のうちには、新しい同一性の経験が隠されている。自分自身の苦難においてキリストの受難に出会い、またキリストの受難において、自分自身に対する神の愛の痛みを経験する人は、この痛みそのものが、もろもろの苦痛や死の不安、奴隷所有者や支配者たちがその人になしてきたことや、なそうとしている仕打ちとは、何か全く別のものであることを知るのである。彼らは歌う。わたしの罪がキリストを十字架に磔にしたと。「深い、深い、罪に、わたしは震える」と繰り返すのである。
 この事実にこそパウロが「主に召された時に奴隷であった者は、奴隷の身分に留まりなさい」と言った、黒人奴隷の解放への希望が、神の自由へのイエスの甦りの力による解放への希望がある。この希望はキリスト教的人道主義者には決して見えない希望である。

 黒人霊歌が歌うように、わたしたちも「深い、深い、罪に、身震い」したい。十字架への道を歩まれる主イエスが、私たちに、今もこう語りかけておられるからである。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
 根本的であるとは、周知の通り物事をその根本からつかむことである。それは危険なことである。それが約束するのは、何よりも回心と根本的変革の痛みである。それは、決して成功を約束する処方箋を提供しない。そうではなく、それは真理と対決させる。それは肯定的かつ生産的であるのではなく、批判的かつ破壊的なのである。

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