プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(ルカ5:10−11)。

 ルカは、主イエスがガリラヤの漁師たちを召し出すこの記事で、「人間をとる漁師」とは「わたしは罪深い者」とのペトロの自己認識にかかっているとした。なにゆえ、「人間をとる漁師」は罪深い者という自己認識を求められるのか。そのことを黙想していたとき、ソドム・ゴモラのために執り成しをしたアブラハムのことが思い起こされた。

 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き」(20)ことの真偽を確かめる、との主の言葉を聞いたアブラハムはこう訴える。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか」(23-24)。
 このアブラハムの問いには何かしら革命的なものがある、と言った人がいる。その頃イスラエルは、一人の人が犯した罪によって共同体全員が責任を負うという、連帯責任の原則によって支配されていた。それをアブラハムはひっくり返し、少数の正しい者のゆえに、罪深い共同体全体への審判を神は猶予することがあり得るのか、と問うたのである。つまりアブラハムは、古い集団的思考をまったく新しい集団的思考によって取って換えようとしたのである。
 この後、アブラハムと御使いの対話は、正しい者の数を巡って繰り返され、ついに正しい者の数は十人にまで譲歩され、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(32)との神の約束をアブラハムは勝ち取るのである。
 この神の言葉がいかに革命的であるかは、預言者エゼキエルの言葉と比較するとき明らかになる。エゼキエルは神の裁きを前にしたイスラエルにこう語る。「たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ」(14:14)。このエゼキエルの言葉と比べると、十人の正しい者のためにソドム・ゴモラ全体を赦すと言われた神の言葉は革命的でさえある。

 ちなみに、わたしは、アブラハムと御使いの対話は「十人の正しい者」で終わったのではない、と考えている。それは「もしかすると、正しい者が一人もいないかもしれません。正しい者が一人もいなくても、あなたは赦される方です。罪人を裁くよりも、罪人を赦す方がはるかに苦しいのです。しかし、神よ、あなたはその苦しみを負われる方です」という内容である。
 エレミヤは、頑なイスラエルを裁く神の痛みを語った。「我腸は痛む」(31:20)と。罪人を赦す神の痛みは、腸の痛みをはるかに超えるのである。それがどれほどの痛みであるかを、神はゴルゴダの十字架でお示しになった。神は、正しい者はいない、一人もいないこの世を愛して、御子イエス・キリストを遣わし、十字架への道を歩ませられたのである。罪人を裁くためではなく、赦すために、神は苦しみを負われたのである。

 御言はこの後、ソドム・ゴモラの滅亡を語る。正しい者が十人いなかったのである。しかし語り手は、その滅びの町から救われた者がいたと語る。アブラハムの甥ロトとその家族である。語り手はその経緯を次のように描いている。「神はアブラハムを御心に留め(!)、ロトを破滅のただ中から救い出された」(19:29)。
 なぜアブラハムはロトを救い得たのか。アブラハムの正しさは、かろうじて自分の命を救い得るだけと言われた「かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブ」の正しさを遥かに超えていたということか。私は、アブラハムゆえにロトが救われた理由は、27 節のアブラハムの言葉にあると考えている。アブラハムはこう言ったのである。「塵あくたにすぎないわたしですが・・・」(27)。
 ロトを滅亡の町から救ったのは、アブラハムの〈正しさ〉ではなく、「塵あくたにすぎないわたし」というアブラハムの深い悔い改めではないのか。破滅のただ中よりロトを救い出す神の恵みはそこでのみ働くのである(Ⅱコリント12:9)。
 主イエスがガリラヤの漁師たちを「人間をとる漁師」として召された意図がここにある。「わたしは罪深い者(塵あくたにすぎない)なのです。」教会はこの深い悔い改めなしにその使命を果たすことはできない。

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