プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記27:1-17、ヨハネ13:21-31、Ⅰコリント11:17-30
讃美歌 332

 しかし、ヤコブは母リベカに言った。「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」母は言った。「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに、行って取って来なさい。」(創世記27:11−13)

Ⅰ.人間性の繁み
 きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げ聞きたい御言は創世記27章1節以下です。ここには、「アブラハムの息子イサクの系図」(25:19)としてまとめられた、イサクの双子の息子ヤコブとエサウの間でなされた、祝福の継承を巡る壮絶な対立が描かれています。それは、一日のうちに二人の息子を失うという悲劇の要素を含んでいるのです(27:45)。祝福の継承者であるイサクの家族が、祝福の継承を巡って崩壊の危機に立たされたのです。
 因みに、アブラハム物語では「約束の遅延」が主題でしたが、ここイサク物語では、双子の兄弟の内、どちらが祝福を継承するのか、というアブラハム物語とは違った主題が展開されます。
 しかも、ヤコブが兄エサウになりすまして祝福を奪うというこの物語は、まことに困難な課題を読者に突き付けるのです。それは、何ゆえ語り手は、祝福の継承という聖なる事柄を、欺きという非道徳なテーマで語ったのか。この物語を通して体験される神とはいかなる存在なのか、といった「なぜ?」です。
 この物語に限らず、「総じてヤコブ物語は非精神的である」と言った人がいます。もしヤコブ物語の冒頭に、母リベカの胎内で押し合う子どもたちに対する神の託宣_「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」(25:23)_がなければ、読者は、祝福を欺き奪うヤコブの非人間性の繁みの中で、神とその御業を見失いかねないのです。

 一体、何がここで起こっているのでしょう。まず注目したいのは、この物語に先立って語られた、双子の兄弟にまつわるエピソードです。母の胎内で押し合っていた二人の子供は成長して、それぞれ別々の仕事につきます。「エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」(25:27)。
 一人は野原を駆け回る狩人、一人は天幕の周りで穏やかに暮らす農夫。この対照的な生業から派生する不安要素に、さらに両親の依怙贔屓という要素が加わるのです。「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した」(25:28)。
 父イサクがエサウを愛した理由は「狩りの獲物が好物」であったからと明言されていますが、母リベカがヤコブを愛した理由については何も触れられていません。聖書が沈黙していますので、ここでは憶測は控えたいと思います。いずれにせよ、きょう読まれた物語の背景には、双子の息子を巡る両親の依怙贔屓が大きく影を落としているのです。

 物語の発端は、「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた」に置かれます。目が見えなくなり、死期が迫ったことを悟ったイサクは、最後の晩餐に好物の狩りの獲物を食べてから、最愛の息子エサウに祝福を与えると言ったのです。
 私たちはここで一つの問いの前に立たされます。それは、リベカはイサクに、「兄が弟に仕える」という神の託宣を伝えていなかったのか?という問いです。それは考えにくいことです。もし、リベカから聞いていたとすれば、イサクは神の言葉よりも自分の好みを優先させるほどに老いてしまったということになります。だとすれば、イサクの目の衰えは単に肉体的な衰えではなく、霊的な目の衰えということになるのです。イサクは「外なる人」だけでなく、「内なる人」も衰えてしまったのでしょうか。以前、巡礼者も旅の目的を喪失すると単なる放浪者に堕すると言いましたが、この時のイサクはまさにそれではなかったのか。このイサクの姿には、まるで荒れ野を放浪する神の民イスラエルの姿が二重写しなっているかのようです。

Ⅱ. 祝福の詐取
 夫イサクがエサウに語る言葉をたまたま聞いていたリベカは、ヤコブをエサウに仕立てて祝福を奪う計画を瞬時に練り上げ、それをヤコブに告げます。もしばれたら呪われると尻込みする息子を、その時は母が呪いを引き受けると説得し、謀は実行に移されるのです。こうして祝福の継承という最も聖なる事柄が、欺き奪うという恐るべき虚偽によって遂行されるのです。
 しかも語り手は、兄エサウに成りすましたヤコブと父イサクの出会いの場面を、自分の判断をいっさい加えず淡々と描きます。それによって読者は、この決定的な場面を、その細部に至るまでそれぞれの感性で、さらに言えばそれぞれの信仰体験で味わい尽くすことになるのです。

 視力の衰えた父を欺くという、心臓の鼓動が聞こえてくるような極度の緊張の中で、ヤコブは父の前に立つのです。息子の早すぎる帰還をいぶかる父に、ヤコブはこう答えます。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」と。
 ヤコブは神を欺きの道具として利用したのです。しかし、イサクがヤコブのこの答えに納得していないことは、このあと繰り返される問い、「わたしの子よ。誰だ、お前は」(18b)、「近寄りなさい。わたしの子に触って、本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい」(21b)、「お前は本当にわたしの子エサウなのだな!」(24a)から明らかです。
 目の見えない父の吟味は、まるで自らの中に沸き起こった疑いを一つ一つ打ち消すかのように、非常にゆっくりと進みます。そしてヤコブの緊張は最終チェック、父との接吻の場面で極みに達します。父の胸に抱かれたヤコブの体は、小刻みに震えていたのではないでしょうか。声はヤコブの声なのです。しかし、体臭と毛深さは野を駆け回る狩人エサウのものなのです。
 こうして親愛の情の象徴である接吻が、父を欺く場面の見事な結びであると同時に、祝福の言葉への導入となるのです。盲目の父イサクは接吻しながら息子エサウの着物の土の香りに恍惚となり、それを神に祝福された約束の地の香りと感ずる場面は、素晴らしい技法で描かれます。そして父イサクはエサウに成りすましたヤコブを厳かに祝福するのです。
 「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が、天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は祝福されるように。」
 ところで、イサクが目の前に立つヤコブをエサウと信じ切って語ったこの祝福は、リベカが双子を胎に宿した時に神から聞いた託宣とは真逆です。母は「兄(エサウ)が弟(ヤコブ)に仕えるようになる」と聞いたのです。ところが父は、「お前(=イサクの中ではエサウです)は兄弟たちの主人になる」と語ったのです。
 神の意志に反する祝福を語る父イサクと、その父を欺いて祝福を奪いとったヤコブのどちらが、より罪深いのだろうか? そんな愚問が心の隅を過ぎるのです。

 兄エサウに成りすまし、祝福を奪い取ったヤコブが父のもとを退出すると、入れ替わるようにして、エサウが狩りから戻り、料理を整え、父の前に立ちます。ここで、ヤコブが父イサクを欺いた途方もない不法行為が発覚するのです。それは最も劇的な場面、クライマックスです。
 何も知らずに父の前に立つエサウの登場と言葉は淡々と描かれます。イサクはまだ、ヤコブが自分を騙したことに気づいていません。それどころかイサクには、今、自分の前に立っているのが誰だか見当もつかないのです。事の真相を知った老人の狼狽は、その直後に発せられるエサウの悲壮な叫び、「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください」によって高められます。七十人訳は、「わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか」の後に、「イサクは黙っていた」という一句を書き加えています。言葉もない、途方に暮れる父の姿がそこにはあるのです。

 こうして、人を欺くという非道徳な人間性の繁みの中で、祝福の継承という神の歴史計画がその目標に達したのです。語り手はこのことを確信していたのであり、またそのことを示そうとしたのです。
 もし誰かが、物語の登場人物たちについて、語り手がどう考えていたかをどうしても知りたいと望むなら、次の点が重要である、と言った人がいます。語り手は、とてつもない神の出来事の中に不可思議な仕方で無理やり巻き込まれ、その中でほとんど破滅しそうになっている人々に対して、共感に満ちた同情の念を読者の中に引き起こそうとしているのであると。なぜなら登場人物たちはすべて、彼らをその救いの対象とする神の恐るべき不可知性に直面して、挫折を余儀なくされていると。
 一体、このとてつもない神の出来事の中に不可思議な仕方で無理やり巻き込まれ、その中でほとんど破滅しそうになっている人々とは誰のことでしょうか。それは改めて言うまでもなく、神の民イスラエルです。神の民イスラエルはすべての民の祝福の源として神に選ばれたことで、言語を絶する壮絶な生を生きることになったのです。すべての民の祝福の源として選ばれたイスラエルは、二度に及ぶ民族的崩壊を経験します。それは祝福の源であることを辞めるような経験でした。語り手は、その神の民イスラエルに対して共感に満ちた同情の念を読者の中に引き起こそうとしているのです。

Ⅲ. 人間の混乱と神の摂理
 神の約束の成就を信じて旅するイスラエルの旅の目的に何があるというのでしょうか。ヴェスターマンは、この旅の目的はイエス・キリストが十字架に上げられた一日であると語りました。「この一日の到来のために、一千年の歴史が欠くことのできない前奏曲となっているのである。その一日は、実際のところ、そこに至るまでの長い道程を離れては理解することはできない。この千年は、その一日を離れては結末も、終着もないのである」と。
 然り、祝福の源として生きた神の民イスラエルがその過酷な歴史で体験した、神の恐るべき不可知性の極みにキリストの十字架があるのです。結びに、ヨハネが描く最後の晩餐の記事から、神の不可知性の極みに触れて終わりたいと思います。
 それは、「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」という衝撃的な言葉で始まります。そして主イエスは、食事の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗われると、「心を騒がせ、(こう)断言され」たのです。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている!」
 この言葉の意味を察しかねている弟子たちに、主イエスは言われます。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ。……それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった」のです。そして「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った」のです。ヨハネはそれを「夜であった」と付記します。
 そして私たちはこのあと、主イエスから驚くべき言葉を聞くのです。ユダが夜の闇の中へ出て行くと、主イエスはこう言われたのです。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった!」と。人の子イエスに栄光を帰したのは、主イエスの胸元に寄りかかる愛弟子でもなければ、十二弟子の筆頭ペトロでもなく、サタンにその心を売ったイスカリオテのユダ!であると言われたのです。聖書の神の不可知性はここに極まるのです!

 裏切り者ユダの存在が初代教会に与えた衝撃がいかに深いものであったかは、福音書の中に散りばめられています。その一つに、主イエスが語られた、「生まれなかった方がよかった」があります。ユダを生まれなかった方がよかったとする言葉は、私たちにも理解できます。しかし、マタイが伝える主イエスの次の言葉は全く理解できません。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる!」と。主イエスはイスカリオテのユダも新しい世界の十二の座に着くと言われたのです。
 裏切り者イスカリオテのユダによって人の子は栄光を受けた! ここに人間の混乱と神の摂理の極地があるのです。そして、私たちはユダをも救いの対象とする神の恐るべき不可知性に直面して、挫折を余儀なくされているのです。一体、私たち信仰者を神の恐るべき不可知性に直面させる最後の晩餐とはなんなのか。主の晩餐で体験される神とはいかなる存在なのか。
 そのことを教会の交わりの混乱という具体的な事例を上げて語ったパウロの言葉があります。第一コリント11章です。
 コリントの教会には仲間割れがありました。結果、一緒に集まって主の晩餐を食べることができなかったというのです。私たちはそこに、祝福の継承者であるイサクの家庭が崩壊したように、教会が崩壊するような出来事を見るのです。パウロはその崩壊寸前の教会の真只中に、十字架のキリストを目の前に描き出す、主の晩餐の制定句を投げ込んだのです。「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである」と言って、主イエスが最後の晩餐で行ったことを描いたのです。「これは、わたしの体である。これは、わたしの血である」と。
 パンが一つであるように一つである教会に、仲間割れが起きたのです。それは主の体と血とに対して罪を犯すことであり、自分自身に対する裁きを招くことに他なりません。しかしパウロによれば、その仲間割れという非道徳な人間性の繁みの中で、祝福の継承という、究極的には神の歴史計画がその目標に達するのです。主の晩餐は互いに引き離されている者の間の交わりを可能にする。ボンヘッファーが、「教会は恐らく、大都市における聖晩餐を守る集まりという状況において、最も確信をもって現われ出るであろう」と言ったのはその意味です。ここでは、「自然的な結びつきはほとんど何らの役割をも演じない。軍国主義者と平和主義者、資本家と労働者、その他これに類する人たちの間には、最も深い対立が横たわっている」のです。「神がここキリストにおいて設定したもうたことは、最高に逆説的な一致」なのです。

 「野の獣の肉」を好んだイサクの最後の晩餐は、互いに引き離されている者の間の交わりを破壊しましたが、神の御子イエス・キリストの肉と血は、互いに引き離されている者の間の交わりを可能にするのです。
 痛恨に堪えないのは、互いに引き離されている者の間の交わりを可能にする主の晩餐が、イサクの最後の晩餐に堕してしまったことです。500年前に始まった宗教改革時、ルターとツヴィングリとの間で聖餐論争が勃発しました。ルターの聖餐理解はカトリックの化体説とほとんど同じでしたが、違いを強調する意味で共在説と呼ばれました。一方、人文主義者ツヴィングリは象徴説を唱え、カルヴァン派がそれに合流したことで、以後、象徴説がプロテスタントの聖餐理解の本流となりました。以来、プロテスタント教会は四百もの教派に分裂したのです。つまり、プロテスタント教会の聖餐は、互いに引き離されている者の間の交わりを破壊するイサクが求めた最後の晩餐と化したのです。
 カトリックの典礼学者ユングマンは、宗教改革においてミサの理解が歪んだのはプロテスタント陣営だけではない。カトリック教会のミサ理解も歪んだとして、ミサの歴史を聖書の時代から辿り、歴史の中でどう理解されたかを研究しました。
 私たちはまことに小さな群れですが、互いに引き離されている者の間の交わりを可能にする主の晩餐を追い求めたいと思います。分裂につぐ分裂を繰り返す世界にあって、互いに引き離されている者の間の交わりを可能とする主の晩餐を回復したいと思います。失われた500年を取り戻したいと思います。それが今回起こった悲しい出来事に対する私たちの答えであり、ここにしか小岩教会の新生はないのです。

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